授業の感想

 
以下、授業についての感想を記します。
 
今回、感想としては大きく2つあります。
1つ目は、「意義」についてです。
学生たちが、決して全員が積極的ではなかったですが(笑)、劇の練習をしている姿を主に拝見しました。早稲田大学という日本でも有数の名門大学生である19,20歳の学生が、
劇をやるということは、どんなことなのか。もちろん、中にはなぜこんなことをやるのか、という疑問を持っていそうな学生も数人見受けられましたが、そこにこそ、大きな意義があると感じました。大前提、人間は強制的に動かされるということは、基本的にはない生き物です。もちろん人質をとられどうしようもなく動くということはあるにせよ、人質を見捨てれば動かないという選択もできるのが人間です。つまり何が言いたいかというと、どんな気持ちであれ、動くのは自分ということです。やらされている人間などいないのです。文句を言いながら、愚痴を言いながらだらだらと動くこともできますし、自ら意義を定め積極的に動くのもまた自分です。今回の劇に、どんな意味を見出し、どのように取り組むのか、それを決めるのは全て自分ですし、取り組まないという選択肢も1つとしてあるでしょう。今回はたまたま劇というテーマですが、極論を言えば、人生も同じです。なぜ人は生きるのか、なぜ人は働くのか、なぜ人は人を好きになるのか、なぜ人は結婚するのか。世の中には正解のない問いが無数に存在し、その回答、すなわちその意義を見出し、行動に移すのは、まぎれもない自分です。目の前のことに、どんな意義を見出し、どのように行動するのか、そしてその行動をどのように評価し、どのような感情を味わうのか。これが、VUCA時代と言われる現代に求められている生きる力だと、私は確信しています。先生の授業を通じて、その生きる力を育む、生きる力に気付く学生がひとりでも増えることを期待しています。
 
2つ目は、「自分」についてです。
今回、過去に自分が受けた授業を、別の視点から、客観的に再度体験するという貴重な経験をさせていただきました。数年前、まだ何者でもなかった私があの中にいたと思いながら授業を見つめていました。感じたことは、私という人間は、やはり面白い人間だということです。先生が私という人間に興味を持っていただくきっかけになった例の落語の授業もそうです。今回、60名近くの学生を見ましたが、あの時と同じ状況だったとして、あの時の私のように落語をやる学生はおそらく一人もいないと思います。もっと範囲を広げて1000人学生がいたとしても、おそらく手を挙げるのは1人か2人程度でしょう。999人の学生が、意味がないと思うことに対して、たった1人だけがトライする、そんな経験を過去何度も何度もトライしてきました。もちろん失敗することもたくさんありましたが、挑戦するたびに経験をし、学びを得、多くの人の関心を奪ってきました。それこそが私という人間の強みなのだなと感じました。
 
1年前、教員になるか、企業に就職するかという決断をしたとき、本当に悩みました。自分だからこそできることが、どちらの道にもあるように思えたからです。そして、教員という世界のやりづらさもたくさん目の当たりにしたからです。日本を変えるのは紛れもなく教育です。そして教育を変えるのは教師です。優秀な教員がたくさん必要です。でも現行の教育業界には、残念ながらその魅力はありません。自らが率先して教育を変えるという道もあったのかもしれませんが、一教員にできることが限られています。教員になって、理想と現実のはざまで苦しむくらいなら、企業を率いて実現したい社会を実現しようと考えた結果、今の道に進むことを決意しました。
ですが、企業にいるからと言って、教育を変えることをあきらめたわけではありません。これからは個の時代です。政府や制度の時代は終わります、つまり民間の時代になると思っています。私は民間企業から、強い影響力を持ってこれからの日本をリードしていく存在になり、ひいては日本の教育を抜本的に変える提言をします。
 

つかう。

 

ちょっとモダンな話。

 

個の時代、VUCAの時代における、企業の在り方とは。

使う立場の人間からすれば、つまりは社員や求職者の立場からすれば、実験の場であり、実践的な学校の意味合いが強くなっている。

だし、その姿勢を持っていないと、何かが起きた時に、または何かをしたくなった時に、通用しない人間になってしまう。

 

終身雇用制度が終了し、デジタル、オンライン、D2Cなどを含めた新たなビジネスモデルが拡大している中で、個が活躍しやすい社会が広がりつつある。

だからこそ、個としての市場価値を高めることは、転職云々の話を抜きにしても、全被雇用者が追求すべきことであると言える。

 

逆にいうと、企業側はこの側面に対してどんな姿勢を取るべきか。

これは某SaaSベンダーが言っていた、崩壊を前提とした体制構築を図ることが必要。

カオスを楽しむ会社であり続けるべきである。

つまりは、誰がいつ抜けても進化できる会社の体制を築き続ける必要がある。

 

そして、常に企業のバリューを磨き続け、抜ける人が多いのと同じだけ、集まってくる人が増える企業を築く必要がある。

 

と思います。

空気の匂い

試合の日の朝の匂い、これは確実に存在する。と思う。

 

それは緊張や高揚や色々な気分が混ざり合ってできているものであって、

単純な臭いではないのだと思う。

 

三浦しをんの『風が強く吹いている』で、小出恵介が箱根2日目の朝に、翔に伝える言葉。

「最高の朝だよな」

あの言葉には確実にそのニュアンスが含まれているんだと思う。

 

世の中には、匂いだったり、景色だったり、国語の世界でしか表現し得ない情景のようなものがある。

 

だから小説の世界は面白くて、そして現実とは違うのだ。

言語化できないものを言語化しているから。

 

インカレ閉幕。

自分にとっては無関係な世界ではあったけど、それでも試合が終わった後のあの感じは確かにそこにあった。

 

きっとこれからもそれがあるんだろうと思う。

 

そしてそれを過去の記憶としてだけではなく、実体験としてこの先の人生でも体感したい。

体感し続ける人生を送っていきたい。

 

バスケの試合の朝だけでなく、仕事なのか、私生活なのか、そういう日をこれからも生み出していきたい。

 

 

 

恋とは

 

恋するとはどんなことなのか、よくわからなくなることがある。

 

正確には、恋するなどということが、人間の人生にどんないいことなのだろうかということである。

 

確かに、誰かを好きになって、それから付き合うまでの過程は楽しい。

一種のイベントであり、相手の手に触れた瞬間、初めてハグをした瞬間の満足感や達成感、高揚感、優位感、それはなんとも筆舌しがたい喜びを感じることができる。

 

しかしながら、いつの日かそうした気持ちは薄れ、どちらかが先に、またはほぼ同時になんてこともあるが、別れを告げる。

 

タイミングの関係で、告げる側と告げられる側になるわけだが、その恋が幸福であればあるほど、告げられる側には大きな喪失感と、裏切られたというトラウマが残ることもある。

 

こうして初めて、人間は、自分がいかに愚かな時間を過ごしたのだろうかと考える。幸せな時間であればあるほど、終わるときは悲しいのである。

 

そうした経験は、人を好きになることへの恐怖心を生む。

 

しかしながらまた時が経てば、甲斐甲斐しくまた恋をする。そしてまた味わうのである、あの喪失感を。

ありがとう、ヤスさん

 

今更ながら、『とんび』見ました。

 

卒論ヤバいのに、見始めて2日間、ぶっ通しで見ました。というか、泣きっぱなしでした。

 

教育実習でも思ったけど、本当に涙もろい。

 

重松清は、読んだし、授業も聞いたけど、なぜか昔からあんまり好きじゃなかった。

 

それはさておき、『とんび』本当にいい話だった。

不器用な親父と、賢い息子、そして愛に溢れたあったかい街の物語。

 

最後の最後まで、本当に不器用で、でもまっすぐな、親父の愛。

いつか自分にも子供ができたら、こうやって愛したいと思いました。

 

親は、切ってもきれない縁で繋がって、いつもどこかで見守っている。

back numberにもそんな曲があったけど、あれも初めて聞いたときは涙出た。

 

やっさんが言ってた言葉、肝に命じていきていこうと思ったから、ここにメモ。

「親なんて、大したことない。子供より少し長く生きてるってだけで。自信持って言えるけど、子育てなんて失敗の連続だよ。でも、子供はちゃんと育ってくれる。子供は自分の力で育つんだ。ただ一つ、親が子供にしてあげなきゃいけないことは、子供にさみしい思いをさせないってことだ。自分がそうできてたかは自信ないけどな。寂しさは雪だ。親が陸だと、どんどん積もってしまう。だからは、親は海にならないといけない。海なら、どんなに雪が降っても、積もらないだろ。って、昔海運が言ってた。」

 

「家族は育つ」

 

ここまで、まだまだ大した年月生きてないけど、たくさん失敗して、たくさん迷惑かけて生きてきた。

 

だけど、成功だとか失敗だとかに関わらず、ただひたすらに許し続けてきてくれた親。

 

だから、これからは、認めさせようと思う。

もちろん、それが全てではないし、成功して認めてもらうってことじゃない。

 

しっかり一人前になって、もっといい景色見せてやりたい。

 

でっかい男になります。

 

人生にゴールはない、かも。

 

実習でよく言われたコト。

 

「先生とは違うもん」

 

高校生の頃は自分もそう思ってた。

いや高校生の頃だけでなく、小学生の頃も、大学生の今も、多分来年も、そう思ってる。

 

知らない世界の住人は、「すごい人」「自分とは違う」「全てを手にしている」そう見える。

 

でも、彼女たちにとって、自分もその1人なんだと知って、気づく。

そんなことないんだなって。

 

三浦春馬竹内結子は、なんで自殺したのだろう。

自殺の真相は、たとえ遺書を残そうと、本人にしかわからない。

 

でも一つわかったことは、「全部持ってる」ように見えて、全然そうじゃなかったってこと。

 

今の自分だって、そう見えるかもしれないけど、全然そうじゃないんだよ。

教壇でそんなことを考えてた。

 

今まで、どうしても手に入れたくて、死に物狂いで、おみくじも引けないくらい緊張して、でも祈って手に入れてきた。

 

でも、手に入れてみれば、今度は次の「どうしても欲しいもの」が出現する。

 

人生はその繰り返しなんだと思う。ゴールは同時に、スタートだと、これはみんないうけど、やっぱりそうだった。

 

じゃあ、次の自分のゴールは何。

 

なんとなく今は、復讐かな。んー、ちょっと違う。

 

忘却かも。それが幸せかも。

 

だから楽しいんだ。だから飽きないんだ。

こっちが本当の「知らなくていいコト」

ケイトは実在する。

 

それが現時点での自分の答えであり、同時に過去の自分への慰めなのかもしれない。

 

「ケイトと付き合う男、軒並み一回りサイズダウンしてない?その分ケイトはキラキラ輝いてる」

 

まさにそうだ。ケイトは、男を踏み台にして、さらに高く飛ぶ。

引っ張り込んで、使って、勝手に捨てる。

 

そういう人は、いやそういう女は、実在する。

 

男尊女卑だとか、ジェンダーだとか、本当に申し訳ない。否定じゃないし、決して女性蔑視ではなく、ただ、個人として、そう思う。

 

話は変わるが、軸足は同じで、ハラスメントだとか、ジェンダー論者が作り上げた防衛線は、時に正常に機能し、時に非情に機能する。

 

「怖い」その一言で、全てを放棄しなければならないからだ。

 

だから非情だ。

 

微妙に伝えたくて、微妙にぼかしたい、そうやって書くと、自分にしかわからない日記になってしまう。

 

でもいいのだ。日記だから。備忘録だから。